備中松山城




2005年 4 月11日 備中松山城  


 




 

備中松山城の歴史 


        
城の形式は山城。城のある臥牛山(標高430m)は4つの峰からなり
小松山に本丸・二の丸・三の丸が階段状に配され、
大松山、天神の丸、前山にも遺構がある。
江戸期の備中松山藩時代は山城で不便なため山麓に御根小屋という御殿を構え、
そこで藩主の起居・藩の政務を行った。

現在は城郭が国の史跡に指定され、
現存する天守・二重櫓・土塀の一部が国の重要文化財に指定されている。
建物が現存する城郭の中では日本一の高所(標高430m)にあり、日本三大山城の一つとなっている。
別名・「高梁(たかはし)城」。伊予(愛媛)の松山との混同を避けるために、
一般的に「備中松山城」と呼ぶことが多い。

水谷家三代勝美に嗣子なく廃絶となり、大石内蔵助良雄が城番として城受け渡しに赴いた城でもある。 
                                                       (Wikipedia参照)


       
日本三大山城・・・・・・備中松山城 (岡山県)  高取城(奈良県)   岩村城(岐阜県) 









鎌倉時代の延応二年(1240)に有漢の郷(現在の上房郡有漢町)の地頭に任ぜられた
秋葉三郎重信により臥牛山のうちの大松山に砦が築かれたことに始まり、
その後、小松山に移り、城の縄張りは時代と共に変化する。
なかでも天正二年(1574)に起こった「備中兵乱」時は
「砦二十一丸」と呼ばれた出丸が築かれていたことが記録として残っており、
臥牛山ー大要塞となっていたようである。
当時の城主であった三村氏が滅んだ後も、
毛利氏の東方進出の拠点として、またさらに毛利氏が防長二国に退いてからも、
備中国奉行として赴任していた小堀正次・正一(遠州)父子により修改築がなされるなど
備中の要衝としの役割を担っていた。
以降、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と城主がかわり明治維新を迎える。
現存する天守などは天和三年(1683)に水谷勝宗により修築された
。 
                                                          (高梁市観光協会HP参照)




軽く考えて登り始めた海抜430メートルの山道。







 
     
     








腹の途中にある駐車場から天守閣までフーフーいいながら登山。
私は予備知識もなく簡単に登れる
     と思ったのが大誤算だった・・・・・・・・フゥ~
                          

島根旅行の帰りに立ち寄る <2005.04.11>


 

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